◆公民権運動を抑圧する立場にあったFBIの文書を通じてフリーダムライド運動に光をあてる
1946年、最高裁判所は州を跨いで運行する長距離バスにおける乗客の人種隔離を違憲とする判決を下しました。翌年、非暴力主義を掲げる公民権団体、人種平等会議(Congress of Racial Equality, CORE)は、最高裁の判決が南部で守られているか確認するため、長距離バスに乗車して南部の州を訪問する「和解の旅(Journey of Reconciliation)」を実施します。バスには白人と黒人が乗車し、当時の差別的慣習に反して白人は後方席に、黒人は前方席に座り、席を移動するよう咎められても、最高裁が認める権利であると告げて、移動を拒否することと、参加者は申し合わせました。「和解の旅」は南部で強硬な反発に遭遇し、参加者はノースカロライナ州で逮捕され、鎖に繋がれたまま労働を行なうチェーンギャングの刑に処せられました。人種差別の根強い南部にあって「和解の旅」は失敗に終わりました。
1954年に教育における人種別学を違憲とする最高裁判決が下され、人種隔離を克服する動きは大きく前に進みました。1960年には、バス車内だけでなくバスターミナル等の施設での人種隔離をも違憲とする判決を最高裁が下し、人種平等会議は「和解の旅」を再度行なうことを決意します。1960年の大統領選を制し、公民権運動に理解を示していたケネディが本気で公民権を擁護しようとしているのか、確かめたいという考えもありました。こうして、1961年5月4日、7人の黒人と6人の白人が2台のバスに分乗した「フリーダムライド(Freedom Ride)」が首都ワシントンを出発します。参加したのは人種平等会議の創始者の一人、ジェイムズ・ファーマー(James Farmer)、14年前の「和解の旅」に参加したジェイムズ・ペック(James Peck)、4年後にセルマ行進を指導するジョン・ルイス(John Lewis)等です。当初は大きな混乱なく進みましたが、5月14日、1台のバスがアラバマ州のアニストンで、地元のKKKに組織された暴徒の襲撃を受け、火炎瓶を投げられたバスは炎上しました。もう一台のバスもアラバマ州のバーミンガムで暴徒に襲われ、参加者は暴行を加えられます。公民権運動の弾圧者として知られる警察署長のユージン・コナー配下の警察は暴徒を取締ることなく、襲撃を黙認していました。
事件はメディアで報道され、全国から注視される事態になり、連邦政府も行動を起こします。ロバート・ケネディ司法長官はバスの護衛をアラバマ州知事に要請するも、知事のジョン・パターソンはこれを拒否します。当初介入に躊躇していたケネディ大統領は州政府や地元警察を信用できないと考え、参加者を保護するため、連邦保安官の派遣を決定しました。フリーダムライド参加者は目的地のニューオーリンズまで到達ことはできませんでした。しかしフリーダムライドは、南部で同様の行動を触発しました。司法長官の要請を受け、長距離バスの規制当局である州際通商委員会は長距離バスでの人種隔離を禁止する行政命令を発しました。これにより、長距離バスにおける人種隔離禁止に対する連邦政府の態度は明確になり、フリーダムライドは歴史的使命を果たしました。