◆連合国による対日占領政策に関する基本資料をデジタル化
米国は太平洋戦争開戦直後からすでに、戦後の占領政策の研究を始めており、1942年には国務省の東アジア政策研究班による素案、1944年に戦後計画委員会 (PWC) で占領政策の原型がまとめられていました。陸海軍でも独自の準備が進められ、三者の計画を調整するために1944年SWNCC(国務陸海軍三省調整委員会)が設置されます。1945年8月占領後、米軍は米太平洋陸軍総司令部 (GHQ-AFPAC) 軍政局を発展させて、10月連合軍総司令部 (GHQ-SCAP) を設置し占領政策の実施にとりかかりました。
この米国の動きに対しソ連は、連合軍総司令部の上級機関としてドイツにおける連合国管理理事会に相当する極東委員会 (FEC) を設けさせました。従ってFECは形の上では占領政策決定の最高機関とされ、日本に対し絶対的権限を行使したマッカーサーも連合国最高司令官としては極東委員会の権限の下におかれた形になります。FECは1945年暮のモスクワ三国(米英ソ)外相会議で設置が決定され、翌年2月末ワシントンの旧日本大使館で第1回会議が開かれています。その任務はポツダム宣言の規定する降伏条項の実施に際して政策と原則の作成、最高司令官の政策実施の見直し等とされ、米国政府は極東委員会の決定を指令にして連合国最高司令官に下達する義務を負うことになりました。11カ国(49年から13カ国)によって構成された委員会では米・英・中・ソの四大国には拒否権が、米国政府には「中間指令権」が与えられていたため、実質的には米国が占領政策決定の最高機関としての立場を確保していました。1947年初期までは委員会では国際的な反ファッショの民主世論を反映して建設的な議論がされ、マッカーサーの占領行政に対しても一定の牽制的役割を果しましたが、占領後期は冷戦の影響を受けてほとんど機能停止に陥ります。
FECには、7つの委員会(1=賠償、2=経済・財政、3=憲法・法制、4=民主化、5=戦犯、6=在日外国人、7=非武装化)が置かれていました。戦後日本の占領政策は、すべてこれら委員会の俎上を経てGHQによって実行されました。本コレクションは米国を中心とする連合国の対日占領政策、占領期日本の実像を明らかにするもので、戦後史の原点である日本占領の内奥に光をあてる重要資料です。
※本コレクションはScholarly Resources刊行のマイクロフィルムRecords of the Far Eastern Commission, 1945-1952をデジタル化したものです
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