出版社 | (UPA, US) |
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出版年 | 2004 |
ニュース番号 | <K04-135> |
PIN100990
1945年10月の「政治犯が釈放されるまでの十日間」は占領期の一事件というだけでなく、日本の戦後史において決定的に重要な意味を持っています。政治犯の釈放は日本政府の自発的意志によってではなく占領軍命令によって成されたこと、この「十日間」におきた東久邇内閣から幣原内閣への移行という政治変動は、新旧権力の交代、即ち天皇制権力から親英米派外務官僚をリーダーとして戦後保守権力の形成への出発点となりました。この十日間に重要な役割を果たしたのが駐日政治顧問部です。
国務省の出先機関としての政治顧問部は、マッカーサーの政治顧問として占領初期における戦犯、公職追放、政治犯釈放、政党の復活、憲法改正などにおいて重要な役割を果たしました。
アチソン(George Atcheson, Jr; 1946.4.18-1947.8.17)はマッカーサーの政治顧問として1945年9月7日着任し、1946年4月18日GHQ(連合国最高司令部GHQ-SCAP)に外交局が設置されたのに伴い外交局長(Political Adviser and Chief of Diplomatic Section)を兼任します。2代目シーボルト(William J. Sebald; 1947.9.2- 1952.3.18)は1945年GHQに入り、政治顧問部長代理となり、アチソンが飛行機事故で死亡したために後任に任命されました。
政治顧問のアチソンもシーボルトも、極東委員会(Far Eastern Commission)の出先機関としてマッカーサーに助言し協議するために東京におかれた対日理事会(Allied Council for Japan)のアメリカ代表を兼任し、マッカーサーに代わって議長を務めソ連代表と応酬しています。
この政治顧問部には、ハーバート・ノーマンと協力して政治犯釈放、政党の自由化に活躍したJ.K.エマーソン、農地改革のGHQ案を起草したフィーリー(Robert A. Fearey)なども所属していました。
政治顧問部は三井本社ビルにおかれ、占領下の日本は独立を失っていたため米国大使は存在しませんでしたが、サンフランシスコ講和条約締結後に独立国として外交関係が生まれ戦後の駐日大使としてRobert D. Murphyが着任(1952.5.9-1953.4.28)するまで、米国駐日政治顧問が実質的な意味での駐日米国大使でもあり、占領下日本の在日各国代表部との関係、対外関係を掌握していました。政治顧問部文書には本格的政治改革開始までの地ならし期の分析には不可欠な資料が数多く含まれています。例えば憲法改正に関する政治顧問部の意見、徳田球一などの政治犯とのインタビュー記録、各政党に関する週間活動報告、農地改革に関するいわゆるフィーリー・メモ、戦後初の選挙の実施時期に関するメモ、さらに対日講和条約交渉メモなど重要資料が含まれています。
・ISBN 978-0-88692-667-0 microfilm