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第三次インド・パキスタン戦争 1971年
The Richard M. Nixon National Security Files, 1969 - 1974.: India-Pakistan War of 1971. 8 reels with guide.

出版社 (UPA, US)
出版年 2008
ニュース番号 <K08-320>

本資料集は、ニクソン大統領文書プロジェクトとして米国国立公文書館に所蔵されていたニクソン大統領期の国家安全保障ファイルの第三次印パ戦争関係資料をマイクロ化したもので、インド・パキスタンにおける外交や、米国の軍事的・経済的支援などを通じて、ニクソン政権がどのように戦争を終結しようとしたのか、そして、連邦議会内における印パ戦争・難民危機に対するニクソン政権への批判の声についてまとめています。本資料集がニクソン政権の外交、連邦議会の外交政策形成能力、冷戦期の政治、世界の重要地域に対する危機管理の研究にとって非常に示唆に富む資料コレクションです。
 1971年3月25日、パキスタン軍は、シェイク・ムジブル・ラーマンと東パキスタンの独立運動の中心となった政党、アワミ連盟Awami Leagueの成員を追って東パキスタンのダッカへと進軍しました。翌日、パキスタン軍はラーマンを捕らえ、何千人ものアワミ連盟のメンバーと支持者を虐殺しました。パキスタン軍は即座に他の地域へと作戦を展開し、東パキスタンで生活する何百万人ものヒンドゥー教徒に対する弾圧も開始しました。パキスタン軍の手口は残忍で死者が多数出ました。米国務省は、7月までの死亡者数をおよそ25万人と見積もりました。パキスタン軍が行使したテロによる支配が大規模難民の危機を引き起こし、5月までに200万人がインド国境を越えて逃亡しました。難民数は6月に500万人に上り、8月になると700万人を越え、11月末には1000万人に達しました。長期の難民危機が、パキスタンとインドとの関係を悪化させました。11月22日に、インド軍が、ゲリラ組織ムクティ・バヒニMukti Bahiniの協力を得てパキスタン領に進入しました。これに対して、12月3日、パキスタン軍がインドの都市数箇所を空爆し、これを期に、両国は第三次の全面戦争に突入したのです。約2週間の後、12月17日、パキスタン軍は降伏し、バングラデシュが独立国家として誕生しました。
 本資料集の最大の部分は、外交的に危機を解決しようとする米国政府高官による日々の記録です。国務省の電信や会話メモ、国家安全保障会議メモの中のファイルは、ニューデリーからイスラマバード、モスクワ、ニューヨーク、ワシントンDCへと吹き荒れた嵐のような外交活動を窺わせるものです。まず、駐印米大使Kenneth B. Keatingは、インド首相I.ガンディーや国防大臣K.B.Lall、内務大臣S.Singhとの間で持たれた会談の説明をニューデリーから電信で送っています。次に、イスラマバードでは、駐パ米大使J.S.Farlandがパキスタン大統領アーガー・ムハンマド・ヤヒヤー・ハーンと話し合いを持ち、さらに、モスクワでは、駐ソ米大使Jacob D. Beamがソ連外務大臣Andrei Gromykoと意見交換をしています。そして、ニューヨークのプレス・リリースは、12月5日から7日の間に開かれた国連安全保障理事会で、当時の米国連大使G.H.W.ブッシュが、戦闘終結のために安保理に最大限の努力を求めるスピーチの全容を伝えます。ワシントンでは、国家安全保障問題担当大統領補佐官H.キッシンジャーと国務長官ウィリアム・ロジャースが駐米インド大使Lakshmi Kent Jhaと何度も会談を重ね、その後、ニクソン大統領は、ワシントンで、ガンディーやヤヒヤー・ハーン、パキスタンの副首相Zulfiqar Ali Bhuttoとも面会しています。
 冷戦期の政治の現実は外交情勢を複雑にしました。ソ連は、近々にインドとの友好条約を結び、一方、ニクソン政権は、中国訪問のためパキスタン支持を標榜する中国との交渉に入っていました。パキスタン軍による3月の攻撃後には米国がパキスタンへの軍事輸送を厳しく制限しましたが、依然として少量の軍事物資はパキスタンに流れていました。この取引が、ニクソン政権にとって大きな問題を孕んだのです。本資料集は、フランク・チャーチ上院議員からニクソン大統領に宛てた1971年6月付けの手紙を収めています。そのなかで、チャーチ上院議員はパキスタン船籍が軍事装備をしつつニューヨーク港を出航することについて大統領に問いただしています。彼は、大統領が、パキスタン船籍の武装解除について「迅速且つ不可欠な措置を講ずる」よう要求しています。一方、Keating大使は、8月25日の電信で、パキスタンへの武器輸送が小規模とはいえ、それがインドとの関係において「深刻な心理的損失」を加えうると警告しています。また、11月には、駐米ソ連大使ドブルイニンAnatoliy Dobryninがロジャース米国務長官との会談で同じ趣旨の発言をしています。同月、米上院議員エドマンド・マスキーEdmund Muskieは、米国がパキスタンへの全軍事的・経済的支援を差し控えるように表明しています。
 チャーチとマスキーの両上院議員による批判の声は、連邦議会の各議員が共有する批判の一部でした。本資料集に詳細に納められたこの種の批判の急先鋒は、マサチューセッツ州選出の上院議員で、難民対策司法小委員会委員長となったエドワード・ケネディでした。ケネディは、危機発生後1週間がたった1971年4月1日に政府批判を開始しました。彼は、批判を繰り返し、8月にはインドの難民キャンプを訪問しました。彼がナショナル・プレス・クラブで虐殺と飢餓の光景を報告し、国の「破綻した対応」を非難したのです。本資料集は、プレス・リリースや、往復書簡、ケネディの主張を文書化する連邦議会議事録の多数の抜き刷り、他の連邦議会議員(例えば、ジョージ・マクガヴァンGeorge McGovern議員、William B. Saxbe議員、アラン・クランストンAlan Cranston議員、Cornelius F. Gallagher議員、ウォルター・モンデールWalter Mondale議員など)の反応を収録しています。


・ISBN 978-0-88692-871-1 microfilm

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